エッセイ参考作

『起きられない人間』

今日のある新聞に、「朝、どうしても起きられない」という相談が投稿されていて、答えた作家の方は丁寧でもっともなアドバイスをしていた。
私の知人にも、<起きられない病>の男がいた。
私も起きられないタイプだ。
だから私は、なぜ起きられない人がいるのかよく知っている。低血圧? 慢性睡眠不足? それもあるが、そんな簡単に答えは出ない。

今日、あなたが、誰かと約束をしていたとしよう。約束の時間は、午前九時。
だけど、朝の七時になっても八時になってもあなたは布団から出る事ができない。
ついには携帯電話を取って、「今日は体調が悪いからキャンセルしたい」と言ってしまう。本当は眠くて起きられないだけなのに、仮病を使う。
あなたは、布団の中で、「ああ、どうしても起きられない。俺は病気なんだ」と、自分で勝手に決めてしまう。一種の自己愛である。
起きられないのは病気だからではない。
あなたがしていたその約束が、<睡眠よりも重要ではなかった>のだ。
睡眠は人間にとって、もっとも大切な欲求のひとつ。その快楽は、麻薬のように強烈なのだ。
睡眠不足で仕事をした後の熟睡のなんと気持ちいいことか。
冬の通勤電車の足元の暖房で睡魔に襲われた事はないだろうか。あの瞬間のうたた寝の快楽といったら、終点まで乗っていたくなるくらい。
車の運転中の睡魔は、「もう事故ってもいいから眠りたい」と思うくらい、激しいもの。
しかし、他の病気を患っていないかぎり、居眠り運転をする人間は少ない。車を路肩に停めて仮眠をとるものだ。
言うまでもなく、睡眠よりも命の方が大切だからだ。
眠ったまま終着駅まで乗っていってもなんの問題にもならない人は、眠ったまま起きないだろう。
だが、終着駅から戻れない時間だったり、明日の仕事に悪影響をもたらすと思うと、人間は必死に起きるのだ。
電車の中で睡眠をとる事よりも自宅へ帰ることの方が重要だからだ。

朝、起きられなくて、学校や仕事に行けない人間は、学校や仕事が重要ではないのである。
社会に重要だと悟らされているだけで、本人の中では軽視されているのだ。
仕事の場合、行かなければ生活が出来なくなると思っていても、実はその仕事が嫌いで、本当は別にやりたい事がある。
夢があったり、またはすでに破れた夢がある。
だから、今の仕事は本心ではどうでもいい。口には出していなくても、心の奥底で、「嫌な仕事には行きたくない」と思っている。
子供の頃は、親が助けてくれる事を知っていて、大人になると生活保護のシステムや病院が助けてくれると知っている。
だから起きない。最悪、生活保護を受けるか入院しようと思っている。
こういうタイプの人間が、少し低血圧だったり、生活時間のバランスが悪く、不眠症の気があったりすると、絶対に起きない。
馴れ合いの友達との約束や気乗りしない仕事の面接なんか絶対に行かない。布団から出ない。
なのに、悲劇のヒロインみたいに、「私は起きられない病です」と、医者やカウンセラーに嘆いたりする。
病院に行く時は起きるのだ。
ひょっとすると、「重症の睡眠障害だ。一週間くらい入院してみよう」と言われるかもしれない期待感が、あなたにとって今日の睡魔よりも重要だからだ。
あなたは、命に関わるくらい重要な事があっても起きないのか。大切な恋人が待っていても、大地震が来ても寝ているか。
違うはずだ。今日のあなたの約束が、快感な睡眠よりも重要じゃないだけなのだ。
自分にとって、学校に行くことは、長い人生を生きるために死ぬほど大切な事だと思い込まないといけない。
仕事に行くことは社会人として当然だと頑なに決意しないといけない。自分が休むと、たくさんの人に迷惑がかかると知らなければならない。

私の場合、アシスタントとの約束だと、いい加減になってしまいがちで、よく、「おまえひとりで行ってくれ」となってしまうから、自宅まで来てもらうようにしている。
家の駐車場で待っていると思うと、起きるものだ。
ただ、写真の仕事で起きなかった事はない。
起きないのは、競馬場に行く約束で多い。競馬場に行くと、決まって嫌いな騎手が勝つから、私の中で嫌気がさしているのだ。
だけど、競馬を見る事はすごく重要だから、レースがスタートする時間には絶対に起きるのである。
這いつくばって起きてきてテレビを見ている。睡眠よりも競馬のメインレースの観戦が私にとっては重要ということなのだ。
睡眠よりも重要な日常を見つければ、あなたの<起きられない病>は治る。
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